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第6話 家族を捨てた妻

作者: なつめ
last update publish date: 2026-09-03 10:42:33

午後6時を過ぎてから最初の5分間、廊下は不自然なほど静かだった。LEVEL4へ上がった居室の監視画面には4方向の通路が映り、昼間の争奪戦で床へ広がった血だけが非常灯の赤い光を鈍く反射している。誰もが〈夜狩りを開始します〉という通知を見て部屋へ逃げ込み、厚い扉の向こうで息を潜めているのだろう。灰乃も椅子へ腰を下ろしたまま、紫箱から得た〈衝撃地雷〉と先ほど取得した〈局所防御膜〉の配置を確認し、広告恩寵で得た保存水を少量だけ口へ含んだ。心臓は昼間に航志と争った直後ほど速くはないものの、肩を壁へ打ちつけた痛みが残り、唇の傷も舌が触れるたび鉄の味を返していた。

6時6分、最初の異変が監視画面の端へ現れた。通路の角から姿を見せた感染者は昼間までの個体より身体が大きく、片脚を引きずりながらも移動速度は遅くない。灰白色に濁った眼球が左右へ動き、血の残る床へ顔を近づけた直後、背後からさらに2体、4体、7体と増えていく。夜間に出現した感染者が昼間の死体を食らい始めると、肉を裂く湿った音が監視マイクを通して室内まで届いた。灰乃は音量を少し下げたが、完全には消せない仕様らしく、スピーカーの奥で歯と骨が擦れる音だけがいつまでも残った。

最初に破られたのは、灰乃の居室から2区画離れたLEVEL1だった。薄い扉へ感染者が何度も体当たりし、所有者らしい男が内側から家具を押し当てている姿が扉脇の小窓へ一瞬だけ映った。防御値を示す数字が急速に減り、残り10%を切ったところで金属が内側へ歪む。男の悲鳴が上がり、隙間へ複数の腕が差し込まれ、扉そのものが引き剥がされるまで1分もかからなかった。監視画面には室内へ雪崩れ込む感染者の背中しか映らなくなり、その向こうから助けを求める声が数度続いたあと、急に途切れた。

〈プレイヤーE-1082・死亡〉という通知が浮かび、数分後、破壊された部屋から1体の感染者が這い出してきた。服だけは先ほどの男と同じで、右腕には生存者用端末が残っている。首筋を大きく噛み裂かれているにもかかわらず身体は動き、床へ落ちていた鉄パイプを踏み越えて群れへ加わった。殺された住人がそのまま敵になる以上、夜が進むほど感染者の数は減るどころか増えていく。1体を倒している間に別の部屋が破られれば、そこから2体、3体と新しい個体が生まれる仕組みだった。

次に狙われたLEVEL2の居室は、扉自体は少し長く耐えた。内部から住人が何度も攻撃しているらしく、侵入口へ近づいた感染者の頭部が破裂し、廊下へ倒れる。しかし死体を踏み越えて後続が殺到し、10分ほどで蝶番の片側が外れた。画面の中で若い女が割れた扉を両手で押し戻しながら泣き叫び、背後にいた男が別の脱出口を探して壁を叩いている。灰乃はその姿を見ているしかなく、やがて女の腕が扉の隙間から引かれ、肩から先が見えなくなった。

視線を逸らしたくなるたび、灰乃は机の上に置いた銀色の薬ケースへ目を戻した。自分が外へ出てあの2人を助けたところで、戻れる保証はない。感染者を引き離せたとしても、その間に自室を奪われる可能性もある。善意は無限ではなく、自分の命と交換してまで差し出すものではないと、1度死んでようやく理解したはずだった。それでも監視画面の中で人間が食い破られる光景に慣れることはなく、助けなかった顔や声だけが記憶へ積み重なっていく感覚は消えなかった。

世界チャットの通知が連続して点灯し始めたのは、2つ目のLEVEL2居室が破られた頃だった。夜間は部屋から出られない者が多い分、昼より書き込みが増えている。感染者の位置、壊されやすい扉の特徴、余っている武器の交換条件などが流れる中、度会航志の名前が何度も上へ浮かんできた。灰乃は開くつもりはなかったが、自分の表示名が含まれた投稿が自動的に強調され、視界の端へ残り続けた。

〈母も父も死んだ〉

最初の1行だけなら、両親を失った男の悲痛な報告に見えた。その下へ数秒置いて、航志は続きを書き込んだ。

〈妻の灰乃は助けられたのに見捨てた〉

〈母は灰乃の部屋の目の前まで逃げていた。それでも開けなかった〉

〈父も灰乃と一緒に地下へ行ったあと死んだ〉

事実だけを切り取れば、完全な嘘ではない。登志江が灰乃の扉まで逃げてきたことも、篤一と地下へ行き、灰乃だけが戻ったことも事実だった。だが登志江が警告を無視して泉帆の水を取りに出たことも、篤一が感染者へ灰乃を突き飛ばそうとしたことも書かれていない。航志は嘘をつくより、必要な部分だけを消した方が人を動かせることを知っていた。

〈泉帆まで死んだ〉

〈灰乃は泉帆が殺されるところを見ていたのに何もしなかった〉

〈こんな時まで自分の利益しか考えていない〉

その投稿を境に、灰乃へ向けられる言葉が増えた。事情を知らない者が、航志の文章だけを材料にそれぞれの正義を語り始める。〈本当に義両親を見殺しにしたのか〉、〈夫を捨てた女らしい〉、〈自分だけLEVEL4だから余裕なんだろ〉、〈家族まで助けないなら誰と協力するんだ〉という文章が続き、中には昼間の航志の書き込みを引用して、病気で正常な判断ができていないのではないかと推測する者まで現れた。

灰乃は返信欄を開かなかった。代わりに監視画面の片隅へ小さくチャットを残し、流れていく文章を黙って眺めた。「家族を見捨てた」という言葉は、1周目なら胸の内側へ深く刺さっただろう。どれほど理不尽な扱いをされても、最後まで家族でいなければならないと思い込んでいたからだ。けれど現在の灰乃の脳裏に浮かんだのは、登志江が扉の外で泣いた夜ではなく、それより前に自分が薬局から戻った日の光景だった。

1周目の終末が始まって数日後、登志江が消毒薬を欲しがり、航志が周辺地図から薬局を探した。近所のドラッグストアはすでに荒らされ、唯一物資が残っている可能性があったのは、感染者の集団が徘徊する大通り沿いの薬局だけだった。誰が行くのかという話になったとき、航志は自分の端末を見ながら「灰乃なら細いから裏口から入れる」と言った。篤一も「若いんだから走れるだろ」と続け、登志江は「無理しなくていいのよ」と言いながら、必要な薬品の名前を紙へ書いて灰乃へ渡した。

灰乃は家族の誰かが怪我をした時に必要になるのだと信じて薬局へ向かった。裏口のガラスは割れており、床には乾いた血と商品棚が散乱していた。店内の奥へ進んだところで感染者に気づかれ、狭い通路を逃げる途中、倒れた金属棚の角で左腕を深く切った。皮膚が裂け、血が指先まで流れたが、それでも灰乃は医療用品の入ったボックスを背負い、感染者を撒いて居室まで戻った。

扉が開いた時、最初に駆け寄ってきたのは泉帆だった。しかし彼女が見たのは灰乃の傷ではなく、床に置かれた医療ボックスだった。泉帆が連れてきていた小型犬は、廊下へ出た際にどこかで足を擦ったらしく、前脚の肉球付近へ小さな切り傷ができていた。歩けないほどではなく、犬自身も鳴いていなかったが、泉帆は灰乃が靴を脱ぐより先に箱を開けた。

新品の滅菌ガーゼ、消毒液、抗菌薬、包帯が並んでいた。灰乃は自分の袖が血で貼りついていることを確かめ、息を整えながら泉帆へ近づいた。薬局から走って戻ったせいで心拍が速く、左腕の痛みに加えて視界も少し揺れていた。

「待って。私の腕、かなり深いから」

泉帆は一度だけ灰乃の腕を見た。その視線は傷口へ長く留まらず、すぐに膝の上へ乗せた犬へ戻った。小さな身体を抱き締め、まるで灰乃が犬から治療を奪おうとしているかのように腕の中へ囲い込んだ。

「この子は喋れないんだよ?」

「犬に使うなとは言ってない」

灰乃は壁へ手をつき、眩暈が収まるのを待ちながら答えた。傷口から落ちた血が床へ小さな点を作る。泉帆は新品のガーゼを何枚も重ね、必要以上の量の消毒薬を使って犬の足を拭いていた。

「全部使わないで。半分でいいから」

「でも感染したらどうするの? この子、自分で痛いって言えないんだよ」

「私も感染する可能性がある傷なの」

その会話を聞いていた登志江が、困ったような顔で近づいてきた。灰乃の腕を見れば深い傷だと分かるはずなのに、義母は泉帆の肩へ手を置き、宥めるような柔らかな声を出した。

「灰乃さん、あなたは我慢強いでしょう」

その一言で、どちらが我慢するべきなのかが決められた。灰乃が何か返すより早く、登志江は「泉帆さんも心配で仕方ないのよ」と続けた。傷が深い側が我慢できる人間であるという理由だけで、治療を後回しにされる。その理屈の異常さを、当時の灰乃は家族の中で争いを起こしたくないという気持ちの方を優先し、言葉にできなかった。

航志は少し離れた椅子へ座り、ずっとスマートフォンを見ていた。灰乃が彼を見ると、ようやく面倒そうに眉を寄せる。

「後でまた取りに行けばいいだろ」

灰乃は耳を疑った。痛みより、その言葉の軽さに頭が冷えた。薬局までの道で何体の感染者から逃げたか、航志は地図を通して把握していたはずだった。

「誰が?」

尋ねると、航志はそこで初めてスマートフォンから顔を上げた。質問の意味が分からないのではなく、なぜそんな当たり前のことを聞くのかという表情をしていた。

「お前だよ」

その夜、灰乃は残った古いタオルを裂いて腕へ巻いた。泉帆の犬の足には真新しいガーゼが巻かれ、その上から小さな靴下まで履かされていた。登志江は犬へ水を飲ませ、篤一は灰乃が持ち帰った栄養ゼリーを食べ、航志は次に必要な物資の一覧を作っていた。誰も灰乃の傷をもう一度確認しなかった。

現在の居室で、灰乃はようやくチャットから目を離した。1周目の記憶が消えると、目の前にはLEVEL4へ強化された壁と、誰にも奪われていない保存水と薬がある。自分で取った物を自分のために使う。それだけのことが、以前は家族を思いやれない行為として扱われていた。

灰乃は世界チャットを閉じた。

「そうね」

室内にはラジオの微かな雑音しかなく、その声を聞く者はいない。灰乃は銀色の薬ケースへ一度だけ視線を落とし、ゆっくり息を吐いた。

「私は家族を捨てた」

否定する必要はないと思った。登志江のために扉を開けず、篤一を助けず、泉帆が撃たれるところも見ていた。航志と資源を共有するつもりも、彼の妻として戻るつもりもない。1周目なら恐ろしくて口にできなかった選択を、今の灰乃は自分の意思で引き受けられる。

そのとき、監視画面の左端で感染者が1体立ち止まった。血の匂いを探していた個体が、何かに引かれたように首を持ち上げ、灰乃の居室がある方向へ顔を向ける。続いて後ろを歩いていた2体も同じ動きをし、そのさらに奥から現れた感染者まで進路を変えた。別方向の画面にも同じ変化が現れ、これまで低レベル居室を襲っていた群れが、少しずつ灰乃の区画へ集まり始めている。

灰乃は椅子から立ち上がり、監視映像を拡大した。通路の奥で、また1体がこちらへ向きを変える。偶然にしては数が多かった。静かに近づいてくる感染者たちを見つめながら、灰乃は誰もいない部屋で続きを口にした。

「1周目は、家族が先に私を捨てていただけ」

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  • 『広告を見るだけで終末を無双した私、最強プレイヤーに「その元夫は捨てて。俺と組め」と迫られました』   第12話 死んだ子どもが広告に出ている

    『大好きな家族に、もう1度会いたいですか?』明るすぎる少女の声が、血と消毒薬の匂いが残る居室へ響いた。灰乃は反射的に黒い端末へ手を伸ばし、画面端の閉じる表示を押したが、指先の下で白い印が一度沈むだけで映像は消えなかった。音量ボタンも反応せず、机へ伏せても再生は止まらない。終末前の住宅広告を思わせる明るい居間では、数十分前に玄理自身の手で処置された小春が、黄色いウサギのリュックを背負って笑っていた。画面の中の小春には首の後ろの噛み傷も、発症前に浮かんだ汗もない。頬には健康な赤みがあり、黒髪は左右へ綺麗に結ばれ、その背景には白いカーテンと湯気の上がる食卓まで映っている。窓の外では鳥が飛び、誰かが焼いたらしいパンが籠へ盛られ、終末など最初から存在しなかったような光景だった。灰乃がほんの少し視線を外すと映像は停止し、〈視聴を継続するには広告をご覧ください〉という文字が中央へ浮かぶ。まるで死んだ子どもの姿を最後まで見つめることまで、報酬の代価として要求しているようだった。『今だけ家族再会キャンペーン!』軽快な電子音が弾け、小春の横へ色とりどりの風船が浮かんだ。少女は両手を広げ、その後ろでは顔の見えない男女が食卓へ料理を並べている。母親と父親を模しているのかもしれないが、小春の本当の家族なのかどうか、灰乃には確かめようがない。その画面下へ、報酬欄がゆっくりと開いた。〈最後まで視聴すると安全区域情報を獲得できます〉玄理の顔から残っていた血の気がわずかに引いた。彼は壁際に置いた黄色いリュックと端末の中の少女を交互に見てから、低く言った。「見るな」灰乃は端末を持ち直した。「見ます」「蓼丸」「情報が必要です」「他の方法を探せ」灰乃は答えず、表示された選択肢へ目を落とした。〈スキップする・報酬なし〉と〈最後まで見る〉。安全区域という言葉がどこまで信用できるかは分からないが、少なくともシステムがわざわざ報酬として提示する以上、この高危険区域を生き残るために関係する情報である可能性は高い。目の前にある情報を、苦痛だからという理由だけで捨てる余裕はなかった。灰乃が〈最後まで見る〉を押すと、30秒のカウントが始まった。小春は画面の中央へ座り、白い皿へ桃の缶詰らしい果肉を並べている。黄色いリュックの少女が桃を好きだったことを、灰乃はまだ知らない。それでもあまりにも生活

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